桶トーク1:桶と日本文化
記念講演「桶と日本文化」小泉武夫(東京農業大学教授)
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日本の酒づくりを変えた、大きな桶の出現
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  皆さん、話は変わりますけどね、今日、ここに工業会社の人が来ていたら、研究されたらすごい話がありますよ。「肥桶」を、人間の糞尿を、田んぼに畑にまきますでしょ。春に日光が差してくると、だいたい1週間風下にいますと、香水の匂いがするんです。これ、ほんとうですよ!! これはね、インドール系とスカトール系が発酵する、発酵なんです。

下の話で申し訳ないんだけど、肥溜(こえだめ)っていうのは、糞尿をただ溜めておいたわけではなくて、桶の中で発酵させているんです。発酵しているとね、ものすごいいい匂いがしてくる。いい匂いが。こういうものにも使われていましたしね。

それから船の輸送がでてきてから、桶というのは大変な役割をしたんです。特に人口の多い江戸の人たちのところに来た「酒樽」は、125万樽といわれているんですよ。これはすごいですね。計算すると、私の本『日本酒ルネッサンス』で逆算したら、江戸の人たちというのは平均して1日に3〜4合ぐらい、酒を飲んでいるんです。そうでないと計算が合わない。どうしてこんなに飲んだんだろう?

なにしろその酒をみんな桶で運んだわけですから。だから、「千石船(せんごくぶね)」なんてドーッと来てね、特に新川(しんかわ)辺り、品川沖に大きな船が着くと、瀬取船(せどりふね:親船の荷物を移し取る小船)が行って、そこから桶と樽を乗せて新川まで来て、荷をどんどん倉庫に入れたんです。ものすごい数です。桶がなかったら、江戸はあんなに繁盛しなかったと思いますよ。江戸の繁盛は、桶のおかげです。すごかったんですね。桶屋さんが1400軒あったというの、わかる気がしますよ。だから毎日のように桶屋さんが、仕事に外に出ていたことになるわけです。

 今の大きな桶、30石(こく)仕込みの桶になったのは、比較的新しいです。私どもの大先輩で、歴史学に加藤百一先生がいます。まだお元気で、90幾つになられます。その加藤先生の「日本の酒の歴史」を見ましたら、お酒を造る「桶」という字が一番最初どこに出てくるかというと、『多聞院日記(たもんいんにっき)』にある、天正10(1582)年の記録だそうです。この日記は奈良の興福寺の塔頭(たっちゅう=寺の中の小寺院)で書かれた日記なんです。

すごいことが書いてあるんですよ、この日記には。『多聞院日記』を書いた日本のお坊さんたちの、僧坊での酒造りの記録に、「火入れ」という言葉が出てきます。いまもその「火入れ」をやるんですよ、酒が腐らないように。これは低温殺菌法なんです。

この時代は、温度計がないんです。なのに、日本人はものすごく正確に酒の温度を測っていた。どうしていたと思います? これは非常におもしろい。大きな火入れ釜に酒を入れて、指を入れるんです。そうして手抜き感といって、人肌とは38度位、「ちょっと熱いな」というと42度とか。一番の熱引きってやつは、ちょっと入れたら45度で、そのときには泡が3筋通る・・・とか、ものすごく克明にしているんです。

酒を沸騰させたらアルコールが飛んでしまう。でも低温殺菌法だから、そうはならない。世界的な微生物学者のパスツールが、ワインを殺菌する方法として低温殺菌法を考えたのは、いまから150年ぐらい前です。彼は1800年代後半に活躍しました。それとまったく同じ温度で、酒の火入れをやっていた記録がある『多聞院日記』が書かれたのは、1500年代ですよ。パスツールよりも300年早く、日本人は低温殺菌法をやっていたんです。

そしてそのときに、桶が出てくるんです。『多聞院日記』の天正10年5月3日のくだり。暖かいから、酒がそろそろ腐るという時期ですよね。当時は防腐剤なんてなかったから、大きな釜に酒を入れて殺菌して「初度なり」とあるから、さらに二度、三度と低温殺菌したらしい。つまりコッホの殺菌(余り高温をかけられない液体の場合には、中温で数回にわたり加熱することで殺菌をする)と同じことをやっている。

それが終わった酒を、冷めないうちに大桶(大きな桶)に入れて、目張りして密閉して、その日の作業は終わった――というようなことが書かれています。それから正月三日のくだりに、冬飲む酒を「冬桶」から取り出して、それを飲んだと書いてあります。だから桶というのは、日本の酒造技術を、相当に高めたわけです。
 
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